北朝鮮 ミサイルと注意人物
26日、朝日新聞大阪はトップ記事に真珠湾攻撃の政治ニュースを掲載した。8月15日が迫り、毎年何かと昭和天皇に関する貴重な資料が発見される。今回の45年9月25日、ニューヨーク・タイムズ記者とUP通信社長に回答した文書もその一つである。文書については記事を読んで判断して頂くとして、ここではタイトルの「注意人物」についてお知らせしておく。
一面のトップ記事の真下に、この文書についてのコメントが掲載されている。タイトルは「国体守るため個人に責任」とある。筆者は五百旗頭真(いおきべまこと・神戸大大学院教授・政治外交史)とある。
実は注意人物というのは、筆者当人のことである。
ミサイルブームの今日であるが、実は五百旗頭教授は北朝鮮ミサイル発射に対する戦略専門家であることは余り知られていない。教授が頻繁にハーバード大学へ客員研究員として渡米していた次期がある。4年前に遡るが、このハーバード大学での研究が対北ミサイル防衛戦略論である。
ハーバード大学は、開校当初から軍備技術開発さらに戦略立案面で活躍している国防省と二人三脚の大学である。広島への原爆投下は、当時の総長ジェームス・コナントが計画を推進して投下を主張したといわれている。キューバ危機の後、冷戦終了後は、専門学部として「ケネディ・スクール」と改名された。問題は日本の大学にも戦略的研究学部、教室を創設するというハーバード大学構想が具体的に持ち上がったことである。既に、中曽根前首相が上記の設立を提唱していることが2000年9月10日の読売新聞で報じられている。そして、常に権力の凄まじいところは、提唱記事がでれば直ぐに実現していくことである。理念先行がいつも揶揄される市民の運動とはここが完全に違う。
2001年、神戸学院大学、大阪大学、慶応大学、愛知文京大学、北陸大学と現実にゼミ形式で実施される。そして、2002年10月、神戸大学においても五百旗頭教授指導により「自衛官と学生の共同有事研究<」の実施が計画される。これで、教授のハーバード大学での研究がどのようなものであったか一目瞭然となった訳である。また、計画された共同研究の内容がどのようなものであるかは、既にその前年に実施された大阪大学学生のレポートで知ることが出来る。学生は自衛官との有事に関する対処を徹夜合宿で行い、未明疲れきった肉体と精神状況で、学生に対して北朝鮮がミサイルを発射した模様ですと自衛官が連絡、迎撃の決断を迫るというシナリオだそうだ。正に、今回のミサイル発射問題で安部官房長官、額賀防衛庁長官が此所一番と持ち出した「敵基地攻撃論」の実践が既に5年前に学生(戦略要員候補生)と自衛隊員と共にシュミレーションされていた訳である。
神戸大学の「有事研究」計画は事前に学生の知るところとなり、学内の学生ならびに教職員さらに市民の反発が相次ぎ、大きな学内問題となり結果的には実行されずに計画は中止された。これが2002年11月の神戸大学「有事研究」阻止事件である。事件と書いたのは、この時、学内の「神戸大学の有事研究を許さない会」と学校当局とで攻防があった訳だが、しかしこの時代背景では未だ学生の逮捕者が出るということはなかった。しかし、この学校側譲歩の一件から後、各大学は警察との一体化対策で連日の如くの逮捕劇が繰返されている現状は記憶に生々しい。そして、第二次小泉内閣発足後、一気にファシスト的弾圧に政権が様変わりした。つい1週間前のあっけに取られる「月桃の花」歌舞団員の逮捕など最たるものである。
7月20日、「防衛大学校長に五百旗頭真氏」のタイトルで記事が掲載された。そして、23日、毎日新聞「時代の風」で「防衛大学校の教育・国民の生命 担うために」が掲載された。さらに、27日、読売新聞「顔」に「第8代防衛大学校長に就任する」の紹介記事が出た、連日のマスコミ登場である。教授はこれらの欄で自らも被害を受けた阪神淡路大震災からの教訓を述べて、自衛隊の必要性を強調している。そして、自衛隊を「国民の生存の最後の手段として用意されている装置」と定義付け、今日自衛隊に求められているのは「多機能弾力的」なあり方が望ましいと説いている。それが、04年の「<安全保障と防衛力の懇談会」(未来への安全保障・防衛力ビジョン)の参加となる。ご承知のようにこの懇談会は「在日米軍再編」の基盤となった「2プラス2」への提言書を担うものであった。
さすがに小泉首相肝煎りだけあって言うことにそつがない。「多機能弾力的」とは巧く言ったものだ。災害救助からミサイル防衛までを言い包めているのだろう。しかし、よく考えれば、教授のこの発想は、硬いことを言う訳ではないが、憲法9条1項に抵触している。自衛隊を手段として弾力的機能化を計ってはならない。最近、自衛隊との共存、自衛隊3分割案、「専守防衛<」、「国際協力」、「災害救助」改編案等が流行りになってきているが、これは「多機能弾力的」の別モデルに過ぎない極めて危険な案である。災害救助は「救助」であり、専守防衛は「攻撃」である。救助と攻撃は全く異種語義であり、呉越同舟は出来ない。大規模災害に対する行政課題を棚上げにしておき、災害時に取り合えず自衛隊派遣でその解決を肩代わりさせ、これを妙案とするのは拙速もよいところである。結果的にこのような論議が野党から出ていることに改憲論議の根拠、温床を与えることになっている。
話を五百旗頭真教授に戻す。毎日新聞「時代の風」の冒頭、教授は防衛大学校長に就任したことで、「喜んで祝福してくれる人が多いが、なぜ、あなたのような人が、といぶかる知人もいる。私が軍事関係者のようでなく、リベラルに見えるので意外に感じるという」。ここで問題は、リベラルと平和主義者が同義語的に世間では共通的風潮扱いになってきている懸念だ。いよいよ、日本人は「平和」の言葉の意味を曖昧模糊化して「戦争」に対する責任回避、加担意識の除外を助長してきている。さらに、「正義の戦争」という言葉、リベラルを信奉してそこに「平和」を位置づけるという儀式、システムが日常化するのも時間の問題である。
文の冒頭は「喜んで祝福してくれる人が多いが」とある。常に周辺だけが熟知しているが、肝心要の国民が適切な判断が出来ない状況に今日ある。単純にマスコミの問題と片付けられないところに深い闇の国民性、権力に対する人間の憧れ、干渉できない内なるもののドグマが秘められている。
結論は、五百旗頭真教授は軍事関係者、即ち平和主義者ではない。平和とは全く裏腹なミサイル戦略専門家である。今回、自ら軍事関係者と名乗り出たことによって平和を脅かす注意人物のランクは透明性の意味でやや平坦になった。そして、各紙の報道から、日本は完全にリベラルという言葉に多目的複合価値を融合させている、国民は映像と言葉を同時限で鵜呑みする次元に在ることが解った。従って、本質的に注意を必要とする人物は、個人ではなく、「平和」を憧れ妄信する私達こそが「注意人物」と称される集まりではないかということだ。