2006年06月05日
政治ニュース 共産党について
定期購読している「正論」7月号に、筆坂秀世氏と佐藤優氏の特別対談「度し難きかな、共産党と外務省」が表紙に掲げられていた。「日本共産党」の筆者筆坂氏の共産党離党問題は、その発端の「セクハラ問題」より以上の組織論として、最近、話題になってきている。全国紙も紙面を割いてこの問題を掲載していることからも推測される。今回、この対談タイトルに誘発されて、最近というより、以前から懸念している市民運動との関係について述べてみる。
天皇制と自衛隊の共存を党是にしている共産党に市民運動の理念を迫っても無理である。パフォーマンスとして共産党員はスクラムを組むようなことがあっても、飽くまでも見せ掛け論に終始するだけである。何度も繰返すが、市民運動と政党は乖離している。と結論的に論じることはいと容易いことである。しかし、それは別段問題ではない。本来、市民運動は理念の運動としての限界を包含している。さらに追求して、極めて個人的理念の問題に最終して不思議ではないものを包含しながらの、飽く迄も運動論であり、内心の悲しい情熱でしかない。というのが概論の普遍部と言えるからである。
昨年の共産党千駄ケ谷総本山竣工を契機に党としての本来論が変質してしまった、と私は解釈している。党結成80周年の集大成、また、上田氏一族、党員の不断の権力との戦いからみての帰結で他人ながら理解出来なくもない。ただ、迎合主義に一度没すれば、大衆の計り知れない権力と快楽への心の変容に抗しきれなくなり、足元が掬われる可能性の結果が生じるのは世の慣わしとして覚悟しておかなければならない。ただし、政治の悪戯に翻弄され本末転倒劇を演じなければならない顛末は、何も共産党だけの問題ではない。議会制民主主義といわれる政党政治の限界を呈しているに過ぎない。それを理解しての選挙戦を担わなければならない市民は不条理といえば不幸であるが、私達市民は権力と癒しの相関関係に依拠しての癒着関係を断ち切れない以上、この形を受け入れざるを得ないだろう。
《市民運動と政党は乖離している》、しかし市民運動は理念的であればこそ如何なる団体にも訴え、理解を求めるのが常道であり、踏み外してはならないのも実践である。
天皇制と自衛隊の共存を党是にしている共産党に市民運動の理念を迫っても無理である。パフォーマンスとして共産党員はスクラムを組むようなことがあっても、飽くまでも見せ掛け論に終始するだけである。何度も繰返すが、市民運動と政党は乖離している。と結論的に論じることはいと容易いことである。しかし、それは別段問題ではない。本来、市民運動は理念の運動としての限界を包含している。さらに追求して、極めて個人的理念の問題に最終して不思議ではないものを包含しながらの、飽く迄も運動論であり、内心の悲しい情熱でしかない。というのが概論の普遍部と言えるからである。
昨年の共産党千駄ケ谷総本山竣工を契機に党としての本来論が変質してしまった、と私は解釈している。党結成80周年の集大成、また、上田氏一族、党員の不断の権力との戦いからみての帰結で他人ながら理解出来なくもない。ただ、迎合主義に一度没すれば、大衆の計り知れない権力と快楽への心の変容に抗しきれなくなり、足元が掬われる可能性の結果が生じるのは世の慣わしとして覚悟しておかなければならない。ただし、政治の悪戯に翻弄され本末転倒劇を演じなければならない顛末は、何も共産党だけの問題ではない。議会制民主主義といわれる政党政治の限界を呈しているに過ぎない。それを理解しての選挙戦を担わなければならない市民は不条理といえば不幸であるが、私達市民は権力と癒しの相関関係に依拠しての癒着関係を断ち切れない以上、この形を受け入れざるを得ないだろう。
《市民運動と政党は乖離している》、しかし市民運動は理念的であればこそ如何なる団体にも訴え、理解を求めるのが常道であり、踏み外してはならないのも実践である。